帰結した先に・・・

裁判員制度をやめて国会に国民を召集し、議論をさせ議員制度を導入するべきだと思う。


私は休日、やることがない場合には30%【電化製品もしくは書店に向かう】・30%【ネットサーフィン】・40%【考える】のいずれかであることが多い。
これはその中の【考える】を行った際に思ったことの一部である。
書かれた(考えた)ことは事実だが、これを見て不安に思い、メール等を送ってくることのないようにお願いしたい。



小さい頃、この世界で主人公は自分だと考えていたころがあった、いや、正確には現在進行形である。
なぜなら自分が見る世界は自分が中心であり、どんな出来事でもその中心に自分がいるからだ。
(もちろん、これは観測点の違いであり、じゃあ今の大不況はどうなんだ、といった事象はこの際考えないとする)
だから小さい頃はどんなことをしてもいいのだ、自分が絶対だと思っていた。これは過去形である。
そのため、小学生以前はかなりハチャメチャなことをしてきた気がする。
ただ、ある時気づいたことがあった。
それは世界は他の住人(人間)にとっても同じ世界であり、その物語は互いを干渉しあう、ということである。
中学の時には漠然と知ってはいたが、理解はしていなかったと思う。
理解したのはおそらく高校生頃だろう。
その時から極力他人の世界に(おもに負の方向へ)大きな影響を与えないようにしようと心がけた。
このころから世界の真理・自分の存在意義について疑問に感じてきたんだと思う。


これまで世界は自分を主人公にした物語であり、おそらくこれを(例えば4次元あたりで)観測する何者かが、存在するんだろうと感じていた。
つまりは何者かに生かされているようなものだと思っていたのだ。
寿命とはその観測者にとっての観測時間であり、その観測を行っていたものが我々の行動なのだと思っていた。
こういった考えに疑問を持った後は、では自分の未来とは何だろうと考えるようになった。
社会では、大人になったのち社会で労働するというのが、人の未来の定義であり、義務であるように装っている。
これは現状の社会が作り上げた何者かによる幻想である。
つまり『常識』だ。
この言葉が昔から嫌いだった。
主人公には常識なんてないはずだと思うから。
自分が歩む路は誰とも同じでない唯一の路だから


自分の存在意義について考えるにあたり、どうしても避けられないことがあった。
それが『死』である。
これは物語の終端であり、集大成である。
それまでを振り返ることで、「自分とは・・・」という小説がどういうものだったのかがわかるようになる。
ではこの『死』はどういう形で発生するのか、という疑問を持った。
それは、例えばスポーツ選手の引退宣言と同じようなものなのだと思う。
自分を見つめ、挑み、その限界を感じたところが自分の『死』なのだと。
(もちろん、肉体的『死』とは異なる)
その終端は誰でも到達できる。
では、その地点で存在意義が見いだせるのか?
これは認識の問題だと考えている。
そもそもこのテーマを考えてる人がどれだけいるだろうか?
わずかであろう。
考えている者たちはこの問題に立ち向かい、(自分なりの)ある一定の考え・答えを見つけ出しているかもしれない。
逆に考えや答えが見つからない者もいるだろう。
それでいいと思う。
答えは個々人が所有しており、また存在しないかもしれない。
これも観測における問題だと思う。
何故なら存在意義が存在すること自体が不定だから。
正確にはあると思い、到達した場所をそうだと決めつけて自分なりの理屈で理由づけしているだけだから。
見えないモノはそう思っている時には見えず、見えたと思った瞬間に“それ”は存在する。
そういうモノだと思う。


では自分における『死』とはどこにあるのだろうか?
現在まで、おそらく2回ほど本気で死を望んだときがあった。
今こうしている通り、この2回とも『死』を望まなかったわけだが、ここ最近ではもしそう感じたときが、自分なりの終端、つまり『死』の頃合いだと思えるようになってきた。
小説家(芥川や太宰、川端など)などの思考を駆使している方々が自殺している歴史を考えると必然なのかも知れないが、思考を突き詰めていくと最終的に『死』にたどり着くのではないかと思えてきたからだ。
苦悩というものは人が生きる上で大きなテーマである。
苦悩を知ることで、幸福などを知ることができるから。
つまりは人生におけるスパイスなんだろう。
ただ、これを効かせすぎると、耐えられなくなる。
だが、自分がいう『死』の頃合いはこれとは異なる。
それは生きる意味合いが見いだせなくなった時だ。
(生きる意味などはそもそもこじつけであるが、目標という意味合いで用いている)
現在では、まだ、自分の限界において見限っていないので、いきなり『死』を迎え入れることはないことを言及しておく。
ただ、自分が将来その時を感じたら、自分の幕は自分で下ろすだろうと感じており、確信している。
(それまでに肉体的『死』が訪れた場合を除く)



人が人で足り得る条件は「思考しているか」だろう。
現時点でこういった思考をしているわけだから、この点において心配はない。
ただ、思考を続けていくことで、世界の矛盾が気になり、どうしようもなくやるせない気分になることは多いと感じる。
思考をしすぎることは視野を狭める、つまり偏った思考に陥りやすいのだと思う。
だが、逆に思考を止めれば、それこそ人ではなくなる。
おそらく人形と同義となる。
そうなることが自分の『死』だ。
このバランスをとることが非常に難しい。



いまだに自分の中で完成した思考は存在しない。
未完成で稚拙で危うい。
その思考が終端に到達する瞬間がくるかはわからないが、おそらく今まで通り思考を続けていく。
それまでの路のりがどういう路なのかが、不安でもあり、楽しみでもある。
精神の崩壊。
これを今まで夢物語と感じていたが、最近すぐ隣に存在することを知った。
自我をしっかりを持っていることの難しさを知った。
あとどれだけ歩けば、自分を知ることができるのだろうか。
これからの目標である。


今日の独り言
「思考をしない人が多い。
 なんでだろう?
 人間だと認識しているのにもかかわらず、人間を捨てているように感じられる。」